ワッフルとチョコレート ベルギー
ベルギー王国はオランダ、ドイツ、ルクセンブルク、フランスと隣接する西ヨーロッパの立憲君主制の国です。
オランダ、ルクセンブルクと共にベネルクス三国と呼ばれ、EUの中心的な役割も担っています。
面積の狭い小国ながら、世界トップクラスの経済水準を誇っており、国際社会における役割も大きい国です。
地域によって民族や言語が異なり、地域ごとの格差や対立はベルギーの抱える大きな問題の一つ。
では、ベルギーがどんな国なのか、詳しく見ていきましょう。
基本情報
気候
国土全体が夏は暑すぎず、冬は寒すぎない西岸海洋性気候(Cfb)に属しており、年間を通して過ごしやすい気候です。
年間を通して気温は平均的に3度から25度の間で推移しますが、稀に30度を超える暑い日や、氷点下を下回る寒さの厳しい日もあります。
降水量も年間を通して月当たり50mmから80mmとほぼ一定で、地域による気候の差異もほとんどありません。
細かく見ると、冬場の方が若干降水量が多く、霧が頻繁に発生。気候の僅かな地域差は標高によるものです。
地理
地理的特徴
ベルギーは北はオランダ、南はフランス、西はドイツとルクセンブルクと国境を接し、西側は北海に面しています。
日本の12分の1ほどの国土面積で、言語によって地域が南北に区分されているのが大きな特徴。
西欧の中心に位置しており、そんな地政学的に重要な場所にある首都ブリュッセルは多くの国際機関が本部を設置する国際都市。
国土は全体的に標高が低く、最高標高はボトランジュの694m。北海に近い北西部は平地が広がり、南東部の内陸側はアルデンヌ地方と呼ばれる高地です。
海沿いの海岸平野は干拓地と砂丘で構成され、海抜0m以下の土地もあります。
アルデンヌ地方は広大な自然が広がり、落葉樹のオークを主として構成される森林には数多くの動植物が存在。
都市域以外は農地や森林など緑の大地が広がるものの、人口過密が原因で環境汚染が大きな問題となっています。
水質はヨーロッパ内で最低レベルと評されており、河川の汚染は特に深刻な問題です。
行政区画
ベルギーは大きく分けてオランダ語圏のフランデレン、フランス語圏のワロン、首都圏ブリュッセルの三地域に区分されます。
フランデレンとワロンはそれぞれ5つずつ州があり、ブリュッセルはフランデレン地域に囲まれていますが、独立した地域です。
国土の中央を東西に言語境界線が走り、国土を北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏に区分。
東端のリエージュ州には少数のドイツ語圏も存在し、首都ブリュッセルは双方の言語が使われています。
フランデレン地域
・アントウェルペン州
・ウエスト・フランデレン州
・リンブルフ州
ワロン地域
・エノー州
・ナミュール州
・リエージュ州
・リュクサンブール州
国境線
ドイツとの国境は複雑な形をしており、幅10mにも満たないベンバンというベルギー領の廃線跡がドイツ領の間を通っています。
ベルギーには飛び地が存在。オランダ内のバールレ・ナッサウには22ものベルギーの飛び地があり、さらにその中に8つのオランダの飛び地が点在。
この国境線は民家などの建物内を通っているものもあり、寝室がオランダで風呂がベルギーということも。
このような民家の住人は、正面玄関がある方の国の国民とみなされ、税金に関しても玄関側の国に納めることとなります。
歴史
先史時代
ベルギーには10万年前から人類が定住していたとされ、1829年にネアンデルタール人の化石が発見されています。
33,000年前の飼い犬と思われる犬の化石も発見されており、3万年前にはクロマニョン人がベルギーの地に定住しました。
紀元前5,200年頃、ドイツより波及した刻線帯文土器文化が発展。紀元前2,500年頃にはインド・ヨーロッパ語族の人々が青銅器文化と共に到来。
紀元前500年ごろにはラテーヌ文化がアルプス方面より広がり、古典的なケルト文化をもたらしました。
古代
紀元前57年に、ガイウス・ユリウス・カエサルはガリア*1全体を征服。ベルギーはその一部に組み込まれます。
4世紀にはフランク人王朝のメロウィング朝による支配が確立。クローヴィス1世は周囲のフランク人居住地の統一を成し遂げました。
その後、カトリックへの改宗を行い、市民の間にも広く普及していきました。
中世
8世紀にはリエージュ出身のカールマルテルが権力を掌握。イスラム王朝であるウマイヤ朝の侵攻を退けました。
9世紀にはカールマルテルの孫にあたるカール大帝が神聖ローマ皇帝として戴冠。リエージュ近郊のアーヘンに首都を置きます。
この時代、ギルドが設立されフランデレン地方は織物業の中心地として発展。世界各地へと輸出していました。
11世紀頃から、ベルギー内の地域がいくつかの封建国家が独立。しかし、フランスやイングランドからの圧力を受けます。
1302年、併合を目論み進行してきたフランス軍を、農民に扮したギルドメンバーが金拍車の戦いで撃退。
15世紀には政略結婚によって現在のベルギーのほぼ全土がブルゴーニュ公国領となりました。
近代
16世紀になるとハプスブルク家の支配下に置かれ、1519年にゲント出身のカール5世が神聖ローマ皇帝として即位。
この頃、ルネサンス美術が普及し、ベルギーの諸都市はその中心として繁栄しました。
17世紀から18世紀にかけて、ベルギーはいくつかの戦争に巻き込まれ続け、フランス、スペイン、オーストリアから支配を受けます。
独立後
1815年、ナポレオン・ボナパルトがワーテルローの戦いで敗北し、ネーデルラント連合王国としてオランダの一部として併合。
1830年、オランダのプロテスタント支配に対する不満からベルギー独立革命が勃発し、独立を果たします。
独立後、産業革命により急速に発展。コンゴを植民地として獲得するなど、強国の一つとなります。
20世紀初頭にはヨーロッパで最も一人当たりのGDPが高く、万国博覧会を4度主催するなど経済と文化の中心地へと成長。
その後、2度の世界大戦ではドイツからの侵攻を受け、一時その占領下にありました。
情勢
治安
ベルギーの治安は悪くはありませんが、スリやひったくりなどの軽犯罪は少なくありません。
荷物から目を離したり、電車内で無防備に居眠りするのは軽犯罪の標的になりかねないのでやめた方がいいでしょう。
また、ベルギーは他のヨーロッパ諸国同様移民が多く、彼ら移民による犯罪も増加傾向にあるので、注意が必要です。
経済
一人当たりのGDPは世界第16位と、高い経済水準を誇る国の一つ。産業はフランデレン地域とブリュッセルを中心に発達。
工業やサービス業など、自由市場経済は十分に発達していますが、諸外国との貿易に依存気味なのが大きな特徴。
EU諸国が主な貿易相手国で、輸出も輸入も化学製品や輸送機器が大きな割合を占めています。
西ヨーロッパの中心として鉄道や道路網、運河などのインフラが十分の整っており、また、労働生産性の非常に高い国です。
工業の非常に発達した国ですが、チョコレートやワッフルなどの菓子類、ビールの生産地としても有名。
国内にはエネルギー資源に乏しく、総エネルギー量の40%程度を輸入で賄い、残りの大半は原子力で賄っており、火力発電等はごく僅かです。
政府は外国企業投資に力を入れており、またEUの中心地でもあることから多くの外国企業が本社をブリュッセルに置いています。
言語戦争
フランデレンとワロンの二地域間の対立はベルギーの大きな課題の一つ。南北で明確に言語境界線が引かれ、フランス語圏とオランダ語圏に分かれています。
南北の経済格差も大きく、サービス業等が発展した北部に比べ南部は貧しく、失業率も高いです。
かつては南部が石炭や鉄鉱石の生産で発展していましたが、現在は衰退。19世紀に北部で起きた産業革命により立場が逆転してしまいました。
この南北の対立は言語戦争*2に発展し、連邦制に移行した今でも対立は暗に存在しています。
文化
ベルギーの文化はフランデレンとワロンで大きく異なり、多言語国家ならではの多様な文化が形成されています。
言語
ベルギーは言語ごとに地域が憲法上で区分されています。オランダ語とフランス語の他、ワロン北東部に僅かにドイツ語地域が存在。
この3つの地域はそれぞれ自治権を有し、それぞれの言語を公用語としています。
ブリュッセルはオランダ語とフランス語の二言語地域で、マルチリンガルの国民も多いです。
ベルギーのオランダ語はフラマン語と呼ばれ、オランダ語のベルギー方言とされることもありますが、違いはほとんどありません。
料理
ベルギーは地域ごとに食文化が異なり、ドイツやフランス、オランダなどの周辺国の影響を受けています。
その中でも、ワッフル、チョコレート、ビール、フライドポテトはベルギーを代表する食べ物です。
フライドポテトはベルギー発祥とされている国民食。フリッツと呼ばれ、マヨネーズを添えて出されるのが特徴。
ムール貝はフライドポテトと共に提供され、白ワインやベルギービールで調理される、安価で人気の料理の一つ。
ベルギービールは多種多様な銘柄があり、色や味、香りなどがそれぞれ異なり、さまざまなビールを楽しめます。
チョコレートは19世紀から生産されている伝統的なお菓子。安価なものから高価なものまで、さまざまなチョコレートブランドがあります。
ベルギーと言えばワッフルとのイメージもあるほどのワッフルの本場。長方形でサクッとしたものと、丸くふんわりした2種類のワッフルがあります。
スポーツ
ベルギーはサッカーが圧倒的に人気スポーツでFIFAランキング2位の超強豪国。世界的な選手も数多く輩出。
意外なことに、ワールドカップの最高順位は2018年の3位でこれまで優勝経験はありません。
自転車競技はベルギーの国技で、ロードレースなどの世界大会も開催。競技としてだけでなく、サイクリングも人気です。
テニスも広く人々の間で人気があり、たいていの街にテニスコートがあり、気軽にプレーできます。
芸術
ベルギーは歴史的に芸術活動が盛んで、数多くの著名な画家を輩出。ヨーロッパの芸術にも大きな影響を与えてきました。
ヤン・ファン・エイクやルネ・マグリットなどの著名な画家の作品は、国内の美術館等で鑑賞可能。
芸術の街と呼ばれる都市がいくつもあり、歴史と伝統の感じられる作品に触れられます。
観光
渡航基本情報
観光のベストシーズンは4月から9月の間。日が長く、比較的穏やかな気候の日が多いです。
ブリュッセル国際空港へは成田空港から直行便があり、所要時間は12時間程度。中東やヨーロッパ諸国の乗り継ぎ便もあります。
シェンゲン協定加盟国で、交通網も発達しているので隣接国から陸路でのアクセスも容易です。
中世ヨーロッパの雰囲気の残る古都で、歴史地区は世界遺産に登録された街並みです。そのほかにも2つの世界遺産があります。
運河の張り巡らされた水の都で、街並みは屋根のない美術館と称され流ほどの美しさ。
街の中心であるマルクト広場や世界遺産の鐘楼など、街歩きが楽しい都市。鐘楼の展望台からは街並みが一望できます。
歩いている時とは違った視点で街並みを楽しめる、運河をめぐるボートツアーも人気アクテビティ。
国際都市ブリュッセルは、さまざまな人種・民族の人々が暮らしており、多様な文化や食べ物と巡り合える街。
ベルギーを代表する観光名所であるグラン・プラスは世界遺産に登録されている石畳の広場。かつてのギルドハウスが立ち並んでいます。
また、ブリュッセルと言えば小便小僧。500年以上の歴史があり、敵軍を小便で追い払ったことに由来するとか。
芸術の丘や王立美術館に立ち寄って、歴史的な価値のある芸術作品に触れてみるのもいいですね。
ベルギー第二の都市にして、巨大な港を持つ港湾都市。ダイヤモンドの取引量は世界一です。
フランダースの犬の舞台として知られ、ベルギーの文化的な首都とも言える都市で、多くの著名な芸術家を輩出しました。
ノートルダム大聖堂はフランダースの犬に登場する大聖堂で、記念碑や美術品が展示されています。
アントワープ中央駅も駅でありながら、美しく壮大な造りから街の大きな見どころの一つ。
ゲント
ブルージュと同様に運河の張り巡らされた、中世ヨーロッパの街並みの残る古都。ベルギー第三の都市でもあります。
ブリュッセルから30分ほどの距離にあり、気軽に日帰りで観光可能。かつては織物業で繁栄しました。
川沿いに立ち並ぶギルドハウスや大聖堂など、当時の歴史とその繁栄を垣間見ることができます。
国際関係
国際都市ブリュッセル
EU、NATO双方の原加盟国であるベルギーは、両機関にとって特に重要な国の一つ。どちらも本部をブリュッセルに構えています。
ブリュッセルはヨーロッパの首都とも呼ばれ、EUの政治・経済の中心となる都市です。
これはブリュッセルが西欧の中心に位置しており、海に面し、他のヨーロッパ諸国の首都からも比較的近いことが理由です。
各国との関係
ベネルクス三国と呼ばれるベルギー、オランダ、ルクセンブルクは古くから密接な関係性にありました。
EUの前身である欧州共同体(EC)発足前から関税同盟を結ぶなど、他のヨーロッパ諸国より早くから連携。
オランダとは特にフランデレン地方が文化的にも近しく、交流が深く、ライバルのような一面もあります。
ルクセンブルクとは兄弟国のような関係性で、ベルギーのフィリップ国王とルクセンブルクのアンリ大公は従兄弟です。
フランス
ワロン地域はフランス語が公用語であり、文化的にも近しいものがあることから二国間関係は良好。
フランス国内の革命に触発されたことで、ベルギーは独立を果たしたこともあり、歴史的に深い関わりがあります。
モロッコ
ベルギーに居住するモロッコ人移民の割合は高く、二国間の関係性は密接。1960年以降、開発協力パートナーとして協定を結んでいます。
コンゴ民主共和国はかつてベルギーの植民地であり、現在では多くのコンゴ人がベルギーへ移住。
アメリカ
ベルギーの独立時から外交関係を結び、政治や経済、軍事などさまざまな面で協力関係を構築。
EU圏外における主要貿易相手国でもあり、アメリカのベルギーに対する直接投資額もかなりのものです。
南欧諸国
ベルギーはアルバニアやセルビア、トルコなどのEU加盟に肯定的な立場をとっています。
特にトルコとの関係性は良好で、大規模なトルコ人コミュニティもベルギー内に存在。
まとめ
オランダ語圏とフランス語圏ではっきりと分かれているベルギーは、二つの異なる独立国のようにも思える国です。
しかし、この状態で政治的な混乱がありながらも200年近く国家を維持してきました。
小国ながら国際社会において重要な位置にあり、経済的に豊かで大いに発展している国です。
やや不可解な政治体制を敷き不安定に見えるものの、国際的に地位の高く豊かな、他にはない珍しい特徴を持っている国ですね。
ヨーロッパ最後の独裁国家 ベラルーシ
ベラルーシ共和国はロシア、ウクライナ、ポーランド、リトアニア、ラトビアに囲まれた東ヨーロッパの国です。
旧ソ連の構成国で、独立した現在でもロシアと経済的、政治的に密接な繋がりがあります。
ヨーロッパ最後の独裁国家と呼ばれており、ルカシェンコ大統領は大統領の座に居座り続けて既に25年以上が経過。
反政府デモも発生しており、これに対して政府は暴力的な弾圧をすることで押さえつけています。
では、ベラルーシについて詳しく見ていきましょう。
基本情報
気候
国土のほぼ全土が冷帯湿潤気候(Dfb)に属し、夏でも比較的冷涼で、冬は平均気温が氷点下を下回る厳しい寒さとなります。
降水量は年間を通してほぼ一定。冬は3〜4ヶ月にわたって一面真っ白の雪景色が広がります。
大陸性気候と海洋性気候の交わる位置にあるため、急な天気や気温の変化も珍しくありません。
10月から11月にかけて気温が急降下し、3月から4月にかけて気温が急上昇するのが特徴。4月には夏日となる日もあります。
地理
ベラルーシは5カ国に囲まれた内陸国で、内陸国としては世界最北に位置しています。
国境付近には河川や湖が多いものの、自然国境はほとんど見られず、そのほぼ全体が人工的に引かれた国境です。
ホメリ州のロシアとの国境付近に飛び地のサニコヴォ=メドヴェジェがあるものの、居住者はいません。
地理的特徴
国土は全体的に平坦な地形で、ベラルーシ山脈が平地を分断しており、最高標高はジェルジンスカヤ丘陵の345m。
国土の北部には、氷河によって形成されたなだらかな尾根があり、数多くの湖が存在。
3000を超える河川と4000を超える湖沼に恵まれ、水資源は非常に豊富。水力発電にも利用されています。
国土の40%がプシュチャと呼ばれる森林で覆われ、北部は主に針葉樹、南部は落葉樹です。
ポーランドにまたがって広がるビャウォヴィエジャの森はヨーロッパ最後の原生林と呼ばれ、世界遺産に登録。
ここではヨーロッパバイソンなど他の地域で絶滅した動物を保護しており、ポーランドと共同で管理されています。
行政区画
ベラルーシの行政区画は、首都ミンスク市とオーブラスチと呼ばれる6つの州の7地区に区分。
各州都名がそのまま州名となっており、ミンスク州に関してはミンスク市が州都を兼ねています。
・ミンスク市
・フロドナ州
・ホメリ州
・ブレスト州
・マヒリョウ州
・ミンスク州
・ヴィーチェプスク州
チェルノブイリ原発事故
1986年に発生したチェルノブイリ原発事故により、国土南東部が放射能によって汚染されました。
その汚染区域はウクライナよりも広く、住民は移住を余儀なくされ、現在でも立ち入ることはできません。
事故発生以降、付近の住民やその子供たちの甲状腺がんや染色体異常などの症例が何倍にも急増しました。
歴史
スラブ人の定住〜
ベラルーシ一帯は、古代から数世紀ごろの間にスラブ人が定住を開始したことが始まりだとされています。
9世紀になり、キエフ大公国から分離したポロツク公国が成立。その後、モンゴル帝国の支配を経て、13世紀にリトアニア大公国に取り込まれます。
当時のリトアニア大公国は、現在のベラルーシを中心にバルト海から黒海にかけて支配するヨーロッパ最大級の強国でした。
後にポーランドとの連合国家、ポーランド・リトアニア共和国となり、国民のポーランドとの同化がなされます。
ロシア統治下〜
18世紀後半、内紛等で弱体化したポーランド・リトアニア共和国は周辺国によって分割され消滅。ベラルーシはロシアに併合されます。
ソ連成立直後、ベラルーシ人民共和国として独立するも、数年でソ連に併合。西側半分はポーランド領となります。
第二次世界大戦時にポーランド側の領土もロシアに併合され、ソ連の一部としてナチスドイツと戦いました。
ドイツの侵攻による破壊や虐殺により国土は荒廃。多くの人々が強制収容所に収監されたこともあり、全人口の4分の1が死亡したとされています。
大戦後、めざましい復興を遂げ経済的に回復し、ミンスクはソ連の産業の中心地となりました。
1986年に発生したチェルノブイリ原発事故により、国土南東部を中心に国土の約5分の1が深刻な放射能汚染を受け、現在もその影響が続いています。
独立後〜
ソ連崩壊に伴い、1991年に独立。1994年にアレクサンドル・ルカシェンコが初代大統領に当選しました。
ルカシェンコは8割を超える得票率で当選。その政策によって独立後の経済を安定させるなどの成果を上げています。
しかし、選挙で不正を行ったり、対立候補や反体制派を弾圧するなど独裁政治を敷き、現在まで一度も大統領の座を降りていません。
選挙における不正を西側諸国から指摘されており、ヨーロッパ最後の独裁者とも呼ばれています。
2021年に反体制派ジャーナリストの拘束のために旅客機を強制着陸させる事件を起こし、国際社会から強い批判を浴びました。
2020年には大規模な反政府デモが発生。鎮圧を試みた警察部隊との衝突によって死傷者が出ています。
情勢
治安
ベラルーシは独裁国家であることから、治安が悪いイメージがあるかもしれませんが、実際は概ね良好です。
しかし、現在はロシアによるウクライナ侵略による影響で、外務省による危険レベルは3から4となっています。
特にウクライナとの国境付近は軍事衝突が発生する危険性があり、非常に危険な状況です。
また、ベラルーシがロシアに協力的であることを理由に、日本も欧米同様ベラルーシに経済制裁を課しました。
政治
ルカシェンコ大統領は1994年以来、6期連続で大統領の座に就いており、独裁的な体制を敷いています。
大統領の三選禁止規定を削除するなど、自身の権力維持に努めており、その在任期間はヨーロッパ最長です。
反政府デモを武力鎮圧したり、選挙に不正の疑いがあったりと、そのやり方は度々西側諸国から批判されています。
経済
ルカシェンコ大統領は、社会主義市場経済*1を導入し、旧ソ連時代の技術力を活かした工業で経済成長を遂げてきました。
その経済はロシアに依存傾向にあり、ロシア経済の悪化はベラルーシ経済に直接的な影響を及ぼします。
そのため、経済状況は不安定で、これまでに3回のデノミネーション*2を実施。直近では2016年位1万分の1の通貨単位切り下げを行いました。
2011年には経済危機に陥り、状況打開のためユーラシア連合*3に加入したため、ロシアのベラルーシ経済に対する影響がますます強まりました。
当然、最大の貿易相手国もロシアで、鉱物やエネルギー資源を輸入。EU諸国も大きな貿易相手国で、最大の輸出品も輸入と同様鉱物です。
石油や天然ガスなどのエネルギー資源の大半をロシアから輸入して賄っています。
文化
文化的特徴
・白ロシアとも呼ばれ、旧ソ連時代の国名は白ロシア・ソビエト社会主義共和国
・ベラルーシ語とロシア語の両方を使って会話することがあり、この二つの言語が混ざったトラシャンカと呼ばれる言語も使われている
・風邪をひいた時、塩やコショウを入れたウォッカや、卵黄と蜂蜜を混ぜたミルクを薬代わりにする人がいる
・ゲストに対して、パンと塩を提供することが伝統的なおもてなし
・バトレイカという人形劇がクリスマスに開催される
料理
ベラルーシ料理はポーランドやリトアニアなどの近隣諸国、他のスラブ諸国の料理と類似点があります。
その中にベラルーシ独自の特徴があり、主に使われる食材は豚肉や淡水魚、じゃがいもや穀物類など。
ドラニキはベラルーシを代表する国民的料理。じゃがいもをすりおろして肉やチーズなどと混ぜたポテトパンケーキです。
サワークリームをかけて食べるのが一般的。バリエーションが多く、多くのレストラン食べられます。
近隣諸国でよく食べられるボルシチも人気料理の一つ。ライ麦パンとサワークリームが添えられ、夏場には冷たいボルシチも食べられます。
マチャンカはチーズベースのクリーミーなシチュー。豚肉などが入ったシチューに付け合わせのパンなどを浸して食べるのが好まれます。
スポーツ
ベラルーシでは、伝統的にチェスやチェッカーのようなボードゲームが盛んでした。
近代以降、体を動かすスポーツも徐々に普及。1952年にソ連としてオリンピックに初参加しています。
現在はスポーツに力を入れており、スポーツの専門学校や大学が多数存在。スポーツ施設も数多くあります。
アイスホッケーが非常に盛んで、国際大会でも好成績を残している強豪国。ルカシェンコ大統領も好み、自分もプレーするほど。
サッカーも人気スポーツの一つ。国内リーグもあり、コロナ禍で各国のリーグ戦が中断している中通常開催し、注目を集めました。
観光地
渡航基本情報
首都ミンスクにある、ミンスクナショナル空港が空の玄関口。日本からの直行便はなく、ヨーロッパ諸国で乗り継ぎとなります。
近隣諸国からバスや電車での越境も可能。陸路で入国する場合、ビザが必要となるので注意が必要です。
長い歴史を誇る首都ミンスクは、ベラルーシ旅行の拠点となる街で、見どころも少なくありません。
第二次世界大戦で荒廃し、戦後スターリン様式*4の都市として復興。旧ソ連時代に建てられた建物が数多く残っており、歴史を感じさせてくれる街です。
独立広場はミンスクの中心地にあり、レーニン像が残っているのが大きな特徴。ショッピングモールやレストランもある散策スポットです。
聖シモン・エレーナ教会は赤レンガ造りののカトリック教会。長崎にある浦上天主堂から贈られた鐘があります。
ミール城
16世紀に建設された、ゴシック様式やルネサンス様式の城です。世界遺産にも登録されています。
敷地内にはイタリア風のフラワーガーデンや、広大な人工湖があり、外回りの散策や、内部の見学が可能。
何度か戦火による損傷と復元を繰り返しており、ベラルーシの辿った歴史を象徴する建物です。
ビャウォヴィエジャの森
ポーランドとの国境を跨いで広がる、ヨーロッパ最後の原生林。貴重な動植物が多数生息。
針葉樹と広葉樹の両方が広がる手付かずの広大な森林で、観光地として人気ですが、希少動物の保護区でもあります。
そのため、立ち入りが制限されている区域が広く、個人で行けるのは一部のみです。ガイドツアーならば森の奥まで入ることも可能。
国際関係
EUとの関係
ベラルーシは元々、すべての国境を接する近隣諸国と良好な関係性を築いていました。
特にポーランドやリトアニアとは歴史的にも関係が深く、文化的にも大きく影響を受けています。
EUそのものとはそこまで友好的な関係性とは言えず、ベラルーシの独立以降悪化と改善を繰り返してきました。
そんなEUとの橋渡しのような役回りをしていたのが、ポーランドとリトアニアです。
そして現在、2020年の大統領選挙の際の不正や弾圧、旅客機の強制着陸などの事件により関係性は悪化。
更に、ロシアのウクライナ侵攻に協力的なことにより、EUはベラルーシに制裁を加えるなど、その関係性は悪化の一途を辿っています。
ロシアとの関係
ロシアとは文化的、民族的に近いことから親しい関係性にあり、また経済的にも密接な関係にあります。
ベラルーシは基本的に親ロシア国ですが、すべての面で良好な関係性というわけではありません。
ロシアはベラルーシの併合を狙っており、ルカシェンコ大統領はこれに反発。これに対し、ロシアは乳製品の禁輸など制裁を行いました。
現在は、経済統合推進への合意、ウクライナ侵攻への協力などロシアへの歩み寄りを見せ、関係性が改善しつつあります。
まとめ
ヨーロッパ最後の独裁国家と呼ばれ、ヨーロッパ諸国の中でも異質の存在感を持つベラルーシ。
独裁的な政治体制ながら、ルカシェンコ大統領はインフラの整備や治安の維持など一定の功績も残してきました。
危険な独裁国家というイメージがあるかもしれませんが、もちろんその政治体制は問題ですが、存外穏やかで安定している面もある国です。
カリブ海のイギリス バルバドス
バルバドスはカリブ海最東端に位置する国で、イギリス連邦*1の構成国です。去年11月に共和制に移行して英連邦王国*2を脱退しました。
全体がサンゴ礁に囲まれており、観光業が盛んな国。カリブ海諸国で最も裕福な国の一つです。
リトルイングランドと称されるほど、建築物など文化的な面で旧宗主国のイギリスの雰囲気が強く残っています。
日本から遠く離れた島国であまり馴染みがなく、名前すら聞いたことがない人もいるかもしれません。
そこで、バルバドスがどんな国なのか詳しく見ていきましょう。
基本情報
気候
バルバドスは全体が熱帯モンスーン気候(Am)に属する南国。年間を通して雨季と乾季に分かれています。
年間を通して平均最高気温が30℃程で温暖。ただ、北東から貿易風が吹き付けるためそこまで暑くはありません。
カリブ海は基本的にハリケーンの被害が多い地域ですが、バルバドスはハリケーンの進行ルートから外れることが多く、直撃することは数十年に一度程度。
雨季は6月から11月で、乾季は12月から5月まで。乾季と言っても全く雨が降らないわけではなく、適度な降雨が見られます。
地理
バルバドスは小アンティル諸島最東端に位置する国です。本島一つのみで構成されていて、他に国土となる島はありません。
セントビンセントの東160kmに位置し、南北に最大34km、東西に最大23km、海岸線の長さは97kmです。
国土面積は種子島と同程度で、島全体の85%が珊瑚石灰岩で覆われた平坦な地形をしており、最高峰はヒラビー山の314m。
その立地や成り立ちから、他の小アンティル諸島の島々とは一線を画した特徴を持っています。
カリブ海の島の一つとされていますが、地理的には大西洋上の島で、カリブ海の島には含まれません。
近隣の他の島々が火山の噴火やプレートの衝突によって生まれたのと違い、バルバドスは珊瑚礁の隆起によって生まれました。
他の島々と比べて東側に位置していることから、自然災害が少ないのが特徴。火山はなく、ハリケーンも滅多に直撃しません。
行政区画
バルバドスは大きく11の行政教区に分けられます。
首都ブリッジタウンのあるセント・マイケル地区が最も人口が多く、クライスト・チャーチ地区以外全て地名がセント〜教区です。
歴史
バルバドスの最初の定住者はアラワク族とされています。4世紀ごろに定住し、漁業やキャッサバ等を育てて生活を営んでいました。
ヨーロッパ人到来〜
15世紀になり、スペイン人がバルバドスに到達。この時スペイン人は先住民を奴隷として他の島に連行したためバルバドスは無人になりました。
その後、ポルトガル人のペドロ・カンポスがこの島に上陸した際、顎髭のような見た目のイチジクをみて、島をロスバルバドスと命名。
この「顎髭を生やしたもの」を意味するロスバルバドスが現在のバルバドスの国名の由来とされています。
スペイン人はバルバドスの支配権を得てプランテーション農園を作ったものの、他の大きな島々を制圧したことで放棄しました。
入植開始〜
1627年に最初のイギリス人入植者が到着。これが、バルバドスにおける初めての永続的な入植となりました。
この時90人が入植、現在のホールタウンに当たる場所に集落を形成してジェームズタウンと命名。
1640年にサトウキビの生産技術が導入され、一気に拡大。労働力確保のため、アフリカから黒人奴隷が連れて来られました。
この時に白人の多くが島を去り、プランテーション農園主など一部の支配者のみが島に残っています。
19世紀〜
1807年にイギリスで奴隷貿易が禁止されたものの、奴隷制度自体は未だ続いていました。
1816年にはアフリカ人奴隷ブッサによる大規模な反乱が発生。農園主打倒を目指しましたが鎮圧されてしまいます。
1834年にようやくイギリスで奴隷廃止法が可決され、奴隷解放がなされました。
独立〜
1958年にカリブ海地域のイギリス領の島々は西インド連邦を結成。独立国となることを目指しますが、各島の方針が合わず数年で瓦解。
バルバドスも西インド連邦の一員でしたが、瓦解と共にイギリス領に復帰、その後1966年に改めて独立を果たしました。
独立後もイギリス連邦や英連邦王国の一員としてイギリスとの深い関係性を維持します。
2021年に英連邦王国を脱退し共和制に移行。サンドラ・メイソンが初代大統領に選出されました。
情勢
治安
バルバドスは観光立国で、外国人観光客が多く、カリブ諸国の中で政情が最も安定。治安面も大きな問題はありません。
政治的権利や市民自由度を評価する自由度ランキングでは世界第14位と先進国レベルの評価を受けています。
もちろん窃盗やスリなどの軽犯罪は発生しているので、最低限の防犯意識を持つことは大切です。
経済
観光業が国の基幹産業で、2020年にはコロナウイルスの影響で大きなマイナス成長となったものの、カリブ地域で最も経済的に安定した国の一つ。
一人当たりのGDPはカリブ海域の独立国の中ではバハマに次ぐ高さで、高所得国*3に位置付けられます。
しかし、観光業によって大きく賄われているバルバドス経済は外部からの影響へ脆弱性が懸念事項です。
コロナウイルスの影響で経済的に大きな打撃を受けたことは、その大きな例と言えます。
国内の耕作可能面積は広く、農業面ではサトウキビの栽培が盛んで、主要輸出品目の一つ。主な貿易相手国はアメリカや周囲のカリブ諸国です。
自国通貨であるバルバドスドルは1USドル=2バルバドスドルの固定相場制を採用。
2022年の経済自由度指数*4は世界第28位と日本を上回っており、南北アメリカ地域ではカナダ、チリ、アメリカに次ぐ第4位です。
文化
料理
バルバドス人がかつてアフリカから連れてこられた人々の末裔にあることから、西アフリカにルーツを持ちます。
そのほかにも、イギリスやクレオール料理の影響も受け、それらが混ざり合ってバルバドス料理を形成。
代表的な伝統料理として知られているのがカウカウ。コーンミールとオクラを混ぜて作る、シチューのような料理です。
周辺の海でよく獲れるトビウオも、人気の食材。ハーブやスパイスで味付けをして、グレイビーソースで揚げてフライにします。
バルバドスののみものと言えばラム酒。世界最古の醸造所があるとされ、マウントゲイなど著名なブランドのラム酒が製造されています。
スポーツ
クリケットは国内で最も人気のスポーツ。国際大会には、周辺諸国と共に西インド諸島として出場し、優勝経験もあります。
競馬は1845年から長く行われ続けている伝統的な競技です。ブリッジタウンにあるギャリソンサバンナで毎年3シーズンに分けてレースが開催されます。
ロードテニスは1930年代に、バルバドスで庶民が気軽に楽しめるスポーツとして誕生。現在ではアメリカや他のカリブ諸国にも普及しています。
建築
バルバドスの文化はイギリスの影響が大きく残っており、特に建築物にその様子がよく見て取れます。
ビクトリア様式など、イギリスの建築様式の建物が主流で、素材として木材や石材のほか、珊瑚も使用。
また、植民地時代の奴隷の家屋は簡単に移動できる簡素なもので、西アフリカの影響を感じさせる色彩の鮮やかな建造物です。
観光地
渡航基本情報
バルバドスにある国際空港は、グラントレー・アダムス国際空港の一つのみ。日本からの直行便はありません。
日本から訪れる場合、基本的にアメリカを経由することとなり、所要時間は最短でも丸一日程かかります。
バルバドスは車で1日あれば一周できる程度の小さな島。南国らしく美しい海と、イギリスの雰囲気の残る街並みが大きな特徴。
首都ブリッジタウンは、イギリスの雰囲気の残る街並みで、旧市街は世界遺産に登録されています。
ダウンタウン内にある主要な観光地は狭い範囲に収まっているものが多く、徒歩での観光が可能。
可動橋であるチェンバレン橋とその周辺にある、国立英雄広場や独立記念公園が観光の中心地。
カーライルベイ
ブリッジタウンの南部に位置するカーライルベイ。べプルスビーチなどいくつかのビーチが広がる美しい海域です。
浜辺でリラックスしたり、さまざまなマリンアクティビティに参加したりとターコイズブルーの海で思うがままに楽しめます。
海岸近くに沈んでいる沈没船の残骸を見学できるツアーもあり、観光客に人気のあるツアーです。
アニマルフラワーケープ
島の北端の崖下にある絶景スポット。崖下の洞窟内の海に向けて開けた入り口からカリブ海の美しい景色を堪能できます。
崖の上にはレストランや土産物店、展望台があり、展望台からの眺望も見応えのある絶景です。
2月から4月にかけてはザトウクジラが見られるチャンスがあり、20分程度のガイド付きツアーが開催されています。
ハリソン洞窟
地下に広がる広大なハリソン洞窟は、石灰岩の侵食作用によって形成された鍾乳洞です。
小川や差し込む光などの見どころのほか、暑さを逃れて涼む場所としてもぴったり。ガイドによる案内のもと見学することとなります。
国際関係
バルバドスは特にカリブ共同体(CARICOM)との協調を基軸に据えた外交を展開しています。
カリブ共同体創設メンバー4か国*5のうちの一つであり、域内の交流は政治的、文化的に深く、近隣諸国に身内がいるバルバドス人も少なくありません。
欧米諸国とも友好的な関係性を築いている一方、中国や北朝鮮、キューバとも国交を有しています。
イギリスとの関係
旧宗主国であるイギリスとは、独立後も良好な関係性を維持。経済的、文化的にイギリスの影響が色濃く残っています。
イギリス連邦の一員であり、公用語が英語であることや、左側通行であることなどイギリスとの共通点が多いです。
カリブ諸国内におけるイギリス人の割合は最も高く、南北アメリカ全ての国家の中でも上位に位置しています。
トリニダード・トバゴとの関係
トリニダード・トバゴとは同じカリブ共同体の創設メンバーとして経済的に繋がりが深い一方、領海の境界をめぐって対立。
経済面や民間レベルでは良好な関係性にあるものの、政治的にやや対立関係にある一面が見られます。
二国間を結ぶ天然ガスのパイプラインを敷設したり、互いに相手国からの観光客も多く、切っても切れない関係性です。
まとめ
カリブ海に浮かぶ小国バルバドスは、カリブ諸国の中では比較的安定していて豊かな、優等生といえる国。
イギリスの面影が色濃く残る文化と美しい海に囲まれ、訪れる価値の十分にあると思います。
日本人にあまり馴染みのない国ですが、とても魅力的でカリブとイギリスの両方の雰囲気を感じられる国です。
洪水と繊維産業 バングラデシュ
バングラデシュ人民共和国はインド、ミャンマーと隣接する南アジアの国で、イギリス連邦の加盟国です。
人口一億人を超えるイスラム教国で、人口密度が非常に高いことで知られています。
国土の大部分が三角州*1にあたる土地で、その豊かさからかつては黄金のベンガルと呼ばれていました。
しかし、豊かな水資源がもたらすのは恩恵ばかりではありません。バングラデシュは毎年当然のように洪水に見舞われる国です。
そんな日本より人口が多く、豊かな土地を持ったバングラデシュがどんな国なのか見ていきましょう。
基本情報
気候
国土の大半がサバナ気候(Aw)および熱帯モンスーン気候(Am)にあたる年中温暖な南国。北部一部地域のみ温帯夏雨気候(Cw)です。
雨季と乾季があり、毎年雨季になると洪水が発生。サイクロンもよく発生し、洪水だけでなく高潮*2ももたらします。
最寒月は1月で、最低気温は13℃前後。4月から5月にかけて最も暑くなり、40℃を超える日も珍しくありません。
夏場のモンスーンシーズンは強風と大雨による自然災害が頻発、多くの都市で月当たり350〜800mmの降水量となります。
乾季となる冬場はほとんど雨が降らず、過ごしやすい気候となるので、12月から2月は観光客にとってベストシーズン。
地理
国土の大半をインドで囲まれ、南東に少しだけミャンマーと隣接。南にはベンガル湾が広がっています。
バングラデシュの地形は、標高の低いデルタ地帯と、北部および北東部に広がる小さな丘陵地帯に大別。
耕作可能面積の割合が高く、ジャングルの広がる一帯はバングラデシュの国獣であるベンガルトラが生息。
デルタ地帯
国土を南北に貫くパドマ川をはじめ、数多くの河川がベンガルデルタを血流の如く流れ、国土の80%は標高の低い沖積平野です。
この水資源に恵まれた肥沃な土地の大半は、海抜10mを下回る標高しかありません。
標高が低く河川の多い地形であるため、モンスーンの時期になると恒常的な洪水が発生します。
丘陵
南東のチッタゴン丘陵や、北東のシレットなど、一部地域のみ標高の高い丘陵地帯を形成。最高峰はケオクラドン山の1230m。
チッタゴン丘陵地帯はインドやミャンマーの国境と隣接するヒマラヤ山脈の一部で、標高600〜900mの高さです。
行政区画
以下の8つの管区が最上位の行政単位
飛び地
かつてバングラデシュとインドの間には、飛び地が入り乱れる極めて複雑な国境が形成されていました。
インドの飛び地の中のバングラデシュの飛び地の中のインドの飛び地・・・といったように二重三重に入り組んだものも。
合計162の飛地があり、そこに住む人々は実質的に無国籍状態でした。この状態の解決のため、2015年に領地の交換を実施。
複雑な国境は解消され、住人は国籍を変えるか、別の土地に移住するか選ぶことができ、多くの住人が国籍を変えて残ることを選んでいます。
自然災害
バングラデシュは自然災害の非常に多い国で、特に雨季にはサイクロン、高潮、洪水など多くの水害が発生。
特に洪水はバングラデシュの直面する最大の問題と言っても過言ではありません。
国土の3分の2が毎年洪水に見舞われ、家屋や農作物の破壊、疫病の蔓延などさまざまな被害をもたらしています。
また、恒常的な洪水の発生は経済への影響も大きく、発展や成長の大きな阻害要因の一つです。
人々は洪水をボンナとボルシャに呼びわけ、ボンナは水害をもたらすもの、ボルシャは恵みをもたらすものと考えています。
乾季はほとんど雨が降らないため、雨季とは反対に旱魃が発生。特に北西部のインドとの国境付近でよく見られます。
歴史
古代〜
バングラデシュの位置する地方は、マウリヤ朝からムガル帝国まで、長くさまざまな王朝の支配下にありました。
ヒンドゥー教や仏教など統治していた王朝によって、いくつかの宗教の影響下にあり、イスラム教が普及したのは12世紀以降です。
ムガル帝国の滅亡後は、イギリスによる統治の時代が始まります。
イギリス統治時代〜
ヨーロッパ人は15世紀からこの地を訪れており、18世紀になり植民地として完全に統治下に置かれました。
もともと自然災害の多い地域性に加え、イギリスによる搾取が行われた結果、大飢饉が発生し1000万人以上の死者を出したとされています。
1905年にはベンガル分割令が発令。これは民族運動の盛んなベンガル地方を分割統治するといったものです。
しかし、激しい反対運動にあって断念。結局、言語ごとに区切る形で分割されました。
東パキスタン〜
1947年にイギリスからの独立を達成。しかし、この時は宗教上の理由からインドと分離して東パキスタンという形でパキスタンの一地方として独立。
独立後、言語や民族が異なることによる東パキスタン軽視の政策や、や政情不安によりパキスタン本土と対立。
東パキスタンで独立派のアワミ連盟が政権を獲得したことで独立を宣言。独立を認めないパキスタンとの戦争に発展します。
インドが東パキスタン側についたことで勝利し、1971年にバングラデシュとして独立を達成しました。
パキスタンからの独立後は、何度かクーデターや首相の暗殺が発生、現在でも依然として政情不安定な状態が続いています。
情勢
2016年に日本人7人を含む22人が犠牲になったイスラム国によるテロが発生し、当時は治安面の懸念がありました。
現在では治安面も落ち着き、旅行者は必要最低限防犯対策を怠らなければ安全に観光できるでしょう。
ただし、宗教感の強い国なので、モスクなど宗教施設では不用意な真似は避けるべきです。
衛生状況
バングラデシュは治安面よりも大きな問題なのは衛生面。一言で言うと衛生面は劣悪な状況です。
自然災害が多く、高温多湿な熱帯の国であるためさまざまな感染症が蔓延しています。
水資源は豊富なものの、清潔な水は貴重で、トイレのない家庭も珍しくありません。また、トイレ自体があっても不衛生なものも多いです。
特に衛生的な環境で育った日本人がバングラデシュを訪れると、不衛生な環境に体が対応できず体調を崩す人も少なくありません。
経済
現在のバングラデシュは後発発展途上国*3に分類され、アジア最貧国の一つ。国内に多くの貧困層を抱えています。
しかし、十分な労働人口、恵まれた土地など経済大国になりうるポテンシャルのある国。
それでも貧困から脱しきれないのは、政治的汚職、度重なる自然災害とそれによるインフラ整備の遅れなど多くの要因が重なっているためです。
ただし、経済成長率は周辺国と比較しても高く、今後数年のうちに後発発展途上国から脱却すると言われています。
主要産業は農業や繊維業。国民の4割が農業に従事し、主な農作物は米やジュート。穀物の自給率は100%を超えています。
繊維産業
繊維業はバングラデシュ経済を支える重要な産業で、輸出品目の中で縫製品が8割を占める繊維大国です。
繊維業が労働集約型の産業であることから、労働力の豊富なバングラデシュの状況にマッチしたことで、国の一大産業となりました。
安価で労働力を賄えることから世界各地のアパレル企業が進出。日本で言えばユニクロやGUが工場を構えています。
文化
文化的特徴
バングラデシュはイスラム教国であるため、その文化はイスラム教に根差しています。
ラマダン後にはイスラム教最大の祭りイードが開催されたり、豚肉は食べなかったり、女性はヒジャブで顔を覆っていたりなど。
肯定の意を示す際は、首を傾げる動作をするため、日本人が初めて見た時は困惑してしまいそうですね。
料理
農業大国であるバングラデシュは米の生産量が世界屈指で、主食として食され、消費量は世界一です。
隣国インドと同様にカレーもよく食べられ、具材に魚を使用する魚カレーが人気。魚は米と同様によく獲れ、よく食べられています。
ビリヤニは結婚式などのお祝い事の際によく食べられる代表的な料理。肉や米などの具材と香辛料を混ぜ合わせた炊き込みご飯です。
スパイスやハーブを牛肉やラム肉と混ぜ合わせて串で刺したシークカバブも定番料理の一つ。
スポーツ
クリケットは国内で最も盛んなスポーツ。20世紀末ごろから広がり始め、街中でも人々がクリケットをしている姿が見られます。
ワールドカップなどの国際大会でも好成績を収めており、クリケットの強豪国の一つです。
カバディは国技でもある伝統的なスポーツ。国際大会にも参加していますが、近年はクリケットやサッカーの台頭でやや人気に翳りが見えつつあります。
観光
渡航基本情報
バングラデシュの空の玄関口は、首都ダッカにあるシャージャラル空港。日本からの直行便はなく、バンコクやクアラルンプールで乗り継ぎます。
インドからバスや鉄道を使っての陸路越境も可能。入国にはビザが必要で、事前に取得していなくてもアライバルビザがあります。
バングラデシュ観光の際は、他の国以上に体調を崩さないよう衛生面の管理を徹底するべきです。
水道水はもちろん飲めず、店に売られているミネラルウォーターも買う前に開封されてないかなど、確認を怠らないようにしましょう。
コックスバザール
コックスバザールは世界最長のビーチとして知られており、その長さは125km。バングラデシュ人のハネムーン先としても人気。
バングラデシュ最南端の人気観光地である珊瑚島、セントマーティン島へも日帰りで訪れることが可能。
シュンドルボン
インドとバングラデシュの2カ国に跨る、総面積100万haの世界最大のマングローブ林。自然遺産として世界遺産に登録。
総面積の6割ほどがバングラデシュ側にあり、ベンガルトラなど数多くの野生動物が棲息しています。
バングラデシュの首都ダッカは、多くの人が行き交い、カオスと称される場所。街を歩いているだけでも面白いのではないでしょうか。
旧市街であるオールド・ダッカは特に色濃くカオスな世界が味わえます。植民地時代の建物の残る、迷路のように入り組んだ街並みです。
オールド・ダッカ内にはスターモスクやアーシャン・モンジールなど、ダッカの定番の観光スポットが点在。
バングラデシュ第二の都市にして最大の港町。ミャンマーとの国境沿いにあるチッタゴン丘陵地帯は多くの少数民族が居住。
彼らの生活を垣間見たり、トレッキングなど手付かずの豊かな自然を堪能できる地域です。
国際関係
バングラデシュは広く多くの国とバランスよく外交関係を築く、所謂全方位外交を展開。
特に近隣諸国とは南アジア地域協力連合(SAARC)を組織し、経済的な発展を目的として深い協力関係を築いています。
ネパール
利害が一致することが多く、その関係性を重視。ネパールは海へのアクセスのため、バングラデシュは洪水の制御にネパールの協力が重要です。
スリランカの初代王はバングラデシュにルーツを持つと言われています。バングラデシュ内の仏教徒コミュニティもスリランカと良好な関係性です。
ミャンマーからバングラデシュへ、多くのロヒンギャ族が難民として避難しています。
ベンガル系のイスラム教徒であるロヒンギャ族を、ミャンマー政府はバングラデシュからの不法移民と見做し迫害。
ミャンマー政府とロヒンギャ族の間で長きにわたって衝突が繰り返され、多くのロヒンギャ族が難民としてバングラデシュに逃れることとなりました。
アメリカ
アメリカは最大の貿易相手国で、繊維製品を数多く輸出。また、さまざまな面で支援を受けています。
イギリス
バングラデシュはイギリスの植民地であったことから、その名残がいくつか見られます。
クリケットが人気スポーツであったり、道路が左側通行であること、英語も実質的な公用語であることなど。
インド
バングラデシュの独立を最初に承認し、独立戦争にバングラデシュ側で参戦したりと独立当初から密接な関係性にあります。
現在でも、経済面や外交面などで緊密な連携をとっており、最も親密な国の一つです。
日本
日本はバングラデシュへ経済的な支援を続けており、先進国で最初に独立を認めたこともありバングラデシュ人の対日感情は非常に良好。
また、初代首相はバングラデシュの国旗を決定する際、日本の国旗を参考にしたとされています。
まとめ
アジア最貧国とも言われるバングラデシュですが、近年は安定した経済成長をみせ続けています。
大の親日国で、国旗も日本に似ていたりと、なにかと親近感の湧く一面の多い国です。
洪水など多くの自然災害に見舞われたり、衛生面など課題の多い国ですが、魅力も同じくらい多い国なのではないでしょうか。
海に浮かぶ砂漠の王国 バーレーン
バーレーン王国は、ペルシャ湾に浮かぶ立憲君主制の島国です。周囲はサウジアラビア、カタール、イランに囲まれています。
国土全体が砂漠に覆われたアラブ国家で、オイルマネーによって潤い、首都マナーマは中東を代表する都市の一つ。
カタールやUAEと同様に、出稼ぎに来ている外国人労働者が多く、人口の過半数を占めています。
33の島からなる国で、観光業にも力を入れている国ですが、日本人にとってはあまり馴染みのない国かもしれません。
そんなバーレーンがどんな国なのか、見ていきましょう。
基本情報
気候
国土全体が砂漠に追われた砂漠気候(BWh)であり、夏場は気温が40℃を超える酷暑が続くことも珍しくありません。
夏場は湿度が高いのも相まって過ごしづらい環境です。また、気温の日較差が大きく、夜は肌寒くなる日もあります。
また、北西からシャマール*1が吹き付けるのも夏場の大きな特徴。
冬場は気温20度前後で推移し、カラッとした快適な空気。雨は滅多に降りませんが、稀に激しい雨が降り鉄砲水を引き起こすことも。
春と秋が観光のベストシーズン。暑すぎず、夜も寒すぎず、雨の心配もほとんどありません。
地理
33の島からなる砂漠に覆われた島国で、最高標高はドゥハーン山の134mと全体的に平坦な国です。
国土面積は785㎢ほどで、海上の埋め立てによる人工島の建設により、その面積は年々拡大しています。
最大の面積を誇るバーレーン島でも南北に最大48km、東西に最大16kmで面積は香川県の3分の1程度しかありません。
行政区画
行政区画は、首都県、南部県、北部県、ムハッラク県の4つの県に区分されます。2014年までは中部県も存在、現在は吸収合併されて4つになりました。
南部県は圧倒的に面積が広いものの、人口は4つの県の中で最小。政府は行政ごとの人口の偏りを是正するためさまざまな施策を実施しています。
その一つがほぼ南端にあるバーレーン第3位の面積の人工島、ドゥラット・アル・バーレーン。魚や三日月のような形をしているのが特徴的。
地理的特徴
バーレーンはペルシャ湾の中でも比較的浅瀬の入江にあたるバーレーン湾に位置しています。
バーレーンは国内に河川、自然湖が全くありません。国土の92%が砂漠に覆われ、湿潤な土地は西海岸に一部あるのみです。
そのため水資源が限られ、地下水や海水淡水化くらいしかありません。ペルシャ湾には帯水層*2があり、これが地下水をもたらしてくれています。
島は砂漠のほか、石灰岩で覆われ、露出した石灰岩が起伏の低い丘陵や浅い峡谷を形成。
砂が塩分を含んでいることもあって、植物にとって非常に過酷な環境であり、ごく一部の植生しかありません。
ハワール諸島
ハワール諸島はカタールから2kmも離れていない場所に浮かぶ島々で、最大のハワール島は国内第二の大きさです。
30ほどの島で構成され、ラムサール条約に登録されており、かつてカタールとの領土係争地でした。
最南端にあるジナン島のみ、ハワール諸島に帰属しないと判断され、カタール領となっています。
歴史
古代〜
古代バーレーンにはディルムン文明が築かれていたとされ、メソポタミア文明やインダス文明との交易地として栄えていました。
紀元前6世紀ごろにはアケメネス朝ペルシャの支配下に置かれ、イスラム教の到来までイラン王朝がバーレーンを統治。
ギリシャ人はこの頃のバーレーンのことを真珠取引の中心地として、タイロスと呼んでいました。
7世紀になると、イスラム教が普及。15世紀末まで、アラブ系の王朝が代わる代わる支配下に置き続けます。
15世紀〜
15世紀末になると、ポルトガルがバーレーン一帯に進出。その後、80年間ポルトガルによる支配が続きます。
1602年、サファヴィー朝ペルシャのアッバース一世がポルトガルをバーレーンから追放。シーア派が影響力を強めることになりました。
18世紀初頭、イランやオマーンが侵攻。その結果、サファヴィー朝は崩壊、戦争の影響で、バーレーンに当時あった360の市町村のうち300が崩壊しました。
1782年、ハリーファ家がカタールから移住し実権を掌握。1820年にはイギリスと条約を締結し、国王としてバーレーンを統治することについて承認を受けました。
19世紀半ば以降、バーレーンはペルシャ湾における貿易の中心地として繁栄。近代的な国家へと変貌を遂げます。
1880年にはイギリスの保護国となり、ペルシャ湾で最初の女子学校が開校されるなど、さまざまな改革が行われました。
石油の発見〜
1931年、アメリカの石油会社の子会社であるバーレーンの石油会社が油田を発見、急速な近代化が進みます。
1968年、イギリスの撤退を機にペルシャ湾岸の首長国が連邦結成協定を締結。
1971年、国連の開催した国民投票の結果、大多数の島民が独立を支持したためイギリスよりバーレーン国として独立を果たしました。
1990年台以降、民主化を求める国民による暴動が発生。その結果、2002年に立憲君主制へ移行し国名もバーレーン王国に改称。
2011年にはシーア派住人による反政府デモ、バーレーン騒乱*3が発生。多数の死傷者や逮捕者を出しました。
情勢
バーレーンは中東諸国の中では比較的治安の良い国とされています。しかし、シーア派とスンニ派の対立は懸念すべき問題です。
2011年にアラブの春に触発されたバーレーン騒乱が発生しており、現在でも両宗派の対立が終息したとはいえません。
現在は落ち着いてはいますが、シーア派住民の居住する地区では2021年に爆破テロ未遂が発生しています。
ただし、これら事件は突発的なものなので、普段は最低限の防犯対策をしておけば安全に過ごせるでしょう。
経済
かつては貿易の中継地として、真珠の産地として栄えていました。石油の発見により、近代的な都市の開発が始まります。
現在のバーレーンは、他の中東諸国にアクセスしやすいという地理的条件を活かした金融センターとして発展。
インフラの整備が進み、多くの外国企業が進出してきたことで、世界的な金融センターの一つとなりました。
アラブ諸国で最初に油田を発見し、産油国として発展を遂げた国で、現在も石油への経済の依存度は高いです。
石油やアルミニウム製品が主な輸出品目で、サウジアラビアやUAE、アメリカが主要貿易相手国。
しかし、他の近隣産油国と比べ生産量が少ないこと、枯渇の懸念があることから、近年は産業の多角化に向けた経済政策を推進。
特に観光業に力を入れており、2004年には中東初のF1グランプリを開催するなど、外国人旅行者の受け入れに積極的です。
バーレーンの経済を支えているのは人口の過半数を占める外国人労働者たち。インド人が最も多くの割合を占めています。
文化
文化的特徴
バーレーンの国名の由来は、アラビア語で海を意味するバハルから。
男性の多くは、ソーブと呼ばれる伝統的なローブを着用。富裕層は西欧風のソーブを着る傾向にあります。頭はグトォラと言うスカーフ状のものを着用。
女性はアバヤと言う黒い衣装を着用し、頭まで覆うのが一般的。たまに頭や顔を覆っていない女性もいます。
かつては絶対君主制で、2002年に立憲君主制に移行。民主化を図っていますが、未だに世界的に見ると独裁的な国家という位置付けです。
公用語はアラビア語ですが、外国籍住民が過半数を占めることや、観光客が多いことから英語も広く浸透しています。
宗教
バーレーンはイスラム教国家で、多数のシーア派と少数のスンナ派に分かれています。
王室がスンナ派であるため、政治や職業などにおいて優遇されており、多数派のシーア派国民に不満が募り時には暴動に発展。
周囲のアラブ諸国と比べ自由度が高く、アルコールも好きなように飲めるし、音楽も好きに聞くことが可能。
宗教の自由も認められており、外国籍の国民が多数を占めることもあって、イスラム教徒以外の国民も少なからずいます。
女性の社会進出も比較的進んでおり、就職や大学に進学する女性も少なくありません。
料理
バーレーン料理はアラビア料理、インド料理、ペルシャ料理などが融合したもの。多民族国家故、いろいろな国の文化が入り混じっています。
代表的な料理の例として、三角形の生地に肉や野菜などの具材を詰めたサモサ。屋台などでよく見られ、メインディッシュの前菜としても提供されます。
マクブースはピラフのような料理で、肉や魚と香辛料をサフランライスと混ぜ合わせて炊いたもの。
ハリースは鶏肉やラム肉などと小麦を混ぜたお粥。ラマダンの月のイフタール*4としてよく食べられています。
スポーツ
サッカーが国内で最も人気のスポーツ。ワールドカップ出場歴はないものの、国内プロサッカーリーグがあります。
モータースポーツも盛んで、バーレーンインターナショナルサーキットは世界有数のサーキットの一つ。
中東初のF1グランプリは、バーレーンで開催されました。現在も毎年バーレーングランプリが開催されています。
乗馬も娯楽として人気があり、厩舎や乗馬施設が国内各地に点在。乗馬だけでなく、競馬も盛んです。
観光地
渡航基本情報
バーレーン入国の玄関口となる、バーレーン国際空港への日本からの直行便はありません。ドバイやバンコクで乗り継ぐことになります。
入国にはビザが必要。空港到着時にアライバルビザを取得可能です。もしくはインターネットで事前取得も可。
観光に適した季節は暑さの和らぐ春や秋。夏場に渡航すると、暑すぎて観光どころではないかもしれません。
お金について、自国通貨以外にサウジアラビアのサウジアラビア・リヤルも流通しています。
首都マナーマはドバイのように砂漠の中に近代的なビルの建ち並ぶ都市。伝統的な商店の並ぶスークなど、近代的な都市の中にアラブの空気を感じられます。
バーレーン国立博物館は、国の辿ってきた歴史を知ることができる人気スポットの一つ。
バーレーン最大規模のアハマド・アル・テファフ・モスクは7000人収容可能な巨大モスク。礼拝の時間外であれば内部の見学が可能。
バーレーン要塞
バーレーン要塞は、マナーマ中心から10分ほどのの郊外にある世界遺産に登録されている要塞です。
古代ディルムン文明の中心都市だったとされる場所で、アラブやポルトガルの要塞など様式の異なる建築物が積み重なっているのが大きな特徴。
砂漠の中に一本だけ生えている10m超のアカシアの巨木。周囲数キロにわたって他の植物がない中、400年以上生き続けています。
水源が不明なため、どうやって生命を維持しているかが謎なため生命の樹と呼ばれるようになりました。
キング・ハファド・コーズウェイ
バーレーンとサウジアラビアを結ぶ全長25kmの海上橋。サウジアラビアの全額出資で1986年に完成しました。
どちら側にも出入国管理所手前に展望タワーがあり、そこで食事を取ったり眺望を楽しんだりできます。
国際関係
対イラン
バーレーンは外交面において、国家の安全保障を最も重視。具体的にはイランからの政治的影響を懸念しています。
シーア派の国であるイランがバーレーン国内のシーア派を扇動することを危惧し、サウジアラビア等君主制の周辺国と緊密な関係性を維持。
イランがかつて、バーレーンはイランの一部であると主張していたことが、バーレーン側が警戒心を抱く原因です。
サウジアラビアとの関係
サウジアラビアは王家が同部族出身なこともあり、最友好国かつバーレーンに大きな影響を与えています。
両国はキング・ハファド・コーズウェイという名の橋で繋がれ、週末には多くのサウジアラビア人が娯楽を求めてバーレーンへ渡航。
2016年にはサウジアラビアがイランと断交したことで、これに追随してバーレーンもイランと断交しました。
2020年、多くのアラブ諸国と対立しているイスラエルと国交正常化に合意。これもまた、イランの脅威に対抗することが主な目的です。
その他アラブ諸国との関係
ペルシャ湾岸地域の協力機構である湾岸協力理事会(GCC)*5の一員として域内における経済的、政治的協力関係を構築。
UAEとは、同時にイスラエルとの国交正常化に踏み切るなど、外交的に足並みを揃え良好な関係性にあります。
カタールとはかつてハワール諸島をめぐって領土問題を抱えていました。また、2017年にはUAE、サウジアラビア、エジプトと共に国交を断絶。
ムスリム同胞団*6を支援していることが断交の主な理由です。2021年に他3カ国と共に国交を回復しました。
西側諸国との関係
アメリカやイギリス、日本などの西側諸国との関係は良好。旧宗主国のイギリスとは独立後も密接な関係性にあります。
バーレーンは親米国であり、アメリカのはバーレーンに第5艦隊の司令部を設置。アメリカはイスラエルとの国交正常化の際の仲介も行いました。
まとめ
バーレーンは比較的世俗的なイスラム教国で、異文化にも寛容な国です。小さなドバイとも呼べるような国で、観光地としての魅力も豊富。
音楽やアルコールを楽しめるのも旅行者にとってはありがたいですね。
比較的安全に、のんびりとアラブ世界を楽しみたいならバーレーンはうってつけの国ではないでしょうか。
カリブの海賊とタックスヘイブン バハマ
フロリダ半島の東部、キューバの北部に位置しており、国土は700以上の島々で構成されています。
観光地として人気の国で、美しいカリブの海が広がる、欧米人観光客がたくさん訪れるリゾート地です。
タックスヘイブンとして知られており、2016年にはバハマ文書*1によってバハマ国内のペーパーカンパニーが公開され注目を浴びました。
また、その歴史を語るにおいて、カリブの海賊の存在を無視することはできません。
金融と観光の島国であるバハマについて、詳しく見ていきましょう。
基本情報
気候
バハマは気候区分上サバナ気候(Aw)や熱帯モンスーン気候(Am)にあたり、メキシコ湾流の影響もあって年間を通して温暖な気候です。
雨季と乾季があり、11月から4月が乾季、5月から10月が雨季にあたります。また、雨季にはハリケーンが襲来し、年間降水量の7割が雨季に発生。
乾季にあたる月は比較的涼しく、降水量も少なく過ごしやすいため観光のベストシーズンです。
雨季は曇りの日が多く湿度が高いものの、北東からの貿易風が吹くため比較的過ごしやすいです。
地理
バハマは661の島と2387の岩礁からなり、そのうち有人島は29島のみ。
首都ナッソーのあるニュープロビデンス島は、国内最大の面積のアンドロス島10分の1以下の大きさしかないものの、人口の7割以上がこの島に集中しています。
国土は非常に平坦で、最大標高はキャット島にあるアルバニア山の63m。国土の大半は海面から数m程の標高しかありません。
地理的にはカリブ海に属すものの、その島々は大西洋上にあります。国土は東西に800km以上に渡って広がり、フロリダ半島と最も近い地点でその距離は約80kmです。
バハマ諸島は、サンゴ礁とそこから作られる石灰岩で形成されているため、国内に河川はありません。
世界のサンゴ礁の約5%がバハマ海域にあり、世界で三番目に大きいバリアリーフを形成しています。
島々の特徴
バハマを構成する島々は、珍しい景観を見られる場所も多く、例えば、二番目に大きいエルーセラ島では、ピンク色の砂浜のピンクビーチが見られます。
ピンク色の貝殻が砕けて砂と混じり合ったことで、このような一面にピンク色の砂浜が作られました。
最大の面積を誇るアンドロス島は、マングローブ林が広がるの湿地帯を形成。
グランド・バハマ島は、第二の人口を誇る島で、住宅や道路網、運河などの開発が進められ国内第二の都市として開発が進行中です。
イナグア島は、多数のフラミンゴが生息しており、生息地は国立公園に指定されラムサール条約に指定。
歴史
先史時代〜
西暦300年ごろ、現在のキューバから渡ってきた人々が定住し、漁業などをしながら暮らしていました。
西暦900年ごろになると、ルカヤン族がこの地に定住。政治、宗教などの社会システムを構築し、発展していきました。
1492年、クリストファー・コロンブスがサンサルバドル島に上陸。この地を奴隷の供給源として、ルカヤン人を他の島々に連れ去ります。
その結果、4万人ほどいたルカヤン人は病気や過酷な労働などによってたった25年で全滅してしまいました。
イギリス人の入植
17世紀、イギリスのピューリタン*2たちが宗教的な自由を求めて移住。
しかし、食糧難に見舞われたため、彼らを率いていたウィリアム・セイルはアメリカへ向けて出向、マサチューセッツ湾岸の植民地に到着し物資を受け取ります。
この時アメリカ側が得た収益は後にハーバード大学となる土地の購入に充てられました。
海賊たちの時代
17世紀後半ごろから、バハマ諸島周辺で多くの私掠船*3や海賊が見られるようになります。
浅い海域に無数の島があるため、財宝の隠し場所として最適なこと、海上交通の要所であるため商船が多く、略奪の機会に恵まれていたことが大きな理由です。
黒髭の異名で知られるエドワード・ティーチもバハマを海賊活動の拠点としていました。
ナッソーは海賊が集まることで、彼ら独自の海賊の掟が誕生。無政府状態になったことも相まって、1706年から11年間海賊たちが自治する私掠船共和国と呼ばれる状態となります。
1718年ウッド・ロジャースがバハマの総督に任命されるまで、海賊たちの栄華は続きました。
ロジャースは降伏した海賊に恩赦を与えると宣言、多くの海賊が降伏、抵抗したものも処刑されるか逃亡したため、バハマにおける海賊の時代は終わりを迎えます。
奴隷の輸入〜独立
18世紀後半、アメリカ独立戦争におけるロイヤリスト*4たちが入植、アフリカ人奴隷を輸入し、プランテーションの労働力としました。
19世紀になって奴隷解放が行われた後もバハマに住み続け、現代のバハマ人は彼らの末裔です。
南北戦争時は、連合国側の貿易拠点として繁栄するものの、戦争終了と共に再び衰退。
1950年ごろからは観光業と金融業で徐々に発展、1973年にイギリスから独立を果たしました。
情勢
バハマの治安は比較的安定しています。しかし、観光大国であるため渡航者が多く、彼らを狙った軽犯罪は少なくありません。
重大犯罪は少ないですが、防犯対策を怠らず犯罪に巻き込まれないように対策をしておくべきでしょう。
経済
バハマはカリブ諸国一裕福な国家で、その財源は主にタックスヘイブンによる金融業によってもたらされています。
一人当たりの名目GDPは先進諸国と並びうるほどであり、外国企業の誘致や観光客などからの外貨収入が主な収入源です。
バハマに限らず、ケイマン諸島などカリブ海島嶼部は観光業以外の産業の発展が見込めないため、税率を抑え、企業を誘致してきました。
その結果、多くの企業が投資、参入し、国内経済は潤ったものの、大企業や富裕層の税逃れに利用されており、2016年のパナマ文書*5の漏洩は世界的なニュースになりましたね。
これは違法ではないものの、国家にとっては税収が減り、犯罪組織の資金洗浄に使われる危険性も孕んでいます。
主要貿易相手国はアメリカやEU諸国で、工業製品等を輸出し、燃料や鉱物を輸入。バハマドルは、1USドル=1バハマドルの固定相場制を採用。
観光業もバハマ経済の屋台骨であり、地理的に近いことや公用語が英語であることからアメリカからの観光客がその大半を占めています。
GDPの半分以上を観光業に依存し、観光客の大半がアメリカから来ることからアメリカの情勢に依存傾向にあるのがバハマ経済の特徴。
ビーチリゾートやマリンスポーツだけでなく、カジノなどの娯楽施設も充実させ、観光客の誘致に力を入れています。
文化
バハマの国名は、スペイン語で干潮を意味するバハ・マール(Baja Mar)に由来。カリブ語で浅い環礁を意味するという説もあります。
島ごとに言語や生活習慣、文化などに多少の違いがあり、例えば、人口の過半数が白人で占められる島や、アフリカの文化が色濃く島などなど。
言語
バハマの公用語は英語ですが、アフリカの言語とイギリス英語が混ざったいわばバハマ方言言える英語。
これはイギリスによる植民地支配と、アフリカから人々が奴隷として連れてこられた歴史に由来するものです。
また、ハイチからの移民はクレオール言語を使用。バハマ方言もバハマクレオール語と言われることがあります。
料理
バハマ料理は、西アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、先住民などさまざまな文化が融合して形成された料理です。
カリブ海で採れる新鮮なシーフードはもちろんのこと、果物や野菜もよく使用されます。
特にバハマ近海で採れるコンク貝は、バハマの名物と言えるシーフードで、いろんな料理に使用される定番の食材。
例えば、コンク貝サラダはバハマの定番料理の一つ。さいの目切りにした巻き貝を野菜や果物と共に盛り付けたサラダです。
ホットソースをかけたり、パイナップルやマンゴーなどの果物を加えたりと食べ方は人によってさまざま。
他にもフリッターとして揚げたり、魚介類のマリネであるセビチェの材料にしたりとレパートリーが非常に豊富。
その他の人気料理としては、グアバなどの果物を甘いソースでトッピングしたダフ、スープなどの添え物として出される甘いパンのジョニーケーキなど。
音楽
バハマでは、カリブ地域や国内発祥の音楽が人気。トリニダード・トバゴ発祥のカリプソや、アフリカ奴隷の子孫が生み出したジャンカヌーなどがその代表例。
その他の国内の伝統的な音楽として、アコーディオンなどの楽器を使うキャット島発祥のレークン・ストラップも人気です。
スポーツ
バハマで最も人気のスポーツはバスケットボール。ワールドカップへの出場歴はありませんが、NBAプレイヤーを複数輩出。
セーリングはバハマの国技であり、人気も非常に高いスポーツです。多くの島でセーリングの大会やイベントが催されています。
観光地
基本観光情報
バハマはクルーズ船の寄港地として、多くの会社のクルーズ船が立ち寄ります。
飛行機で訪れる場合、ニュープロビデンス島にあるリンデン・ピントリング空港が空の玄関口。
基本はアメリカ経由となりますが、カナダやイギリスからの直行便も存在します。
主な観光地はもちろん、カリブ海の美しい海を楽しむビーチやマリンスポーツです。
キャスタウェイ・ケイ
キャスタウェイ・ケイはディズニーグループが所有するリゾートアイランドで、ディズニークルーズに参加しないと訪れることができません。
アメリカの、主にマイアミ発のクルーズラインの寄港地の一つで、その旅程の途中で訪問する島です。
ディズニーとビーチリゾートが融合した島で、さまざまなマリンアクティビティを楽しんだり、お馴染みのディズニーキャラクターにも会えます。
ナッソー
首都ナッソーはカリブ海クルーズにおける最も人気の寄港地の一つ。飛行機でバハマを訪れる際も大抵はここにに降り立つので、ほとんどの観光客が一度は訪れるでしょう。
ビーチリゾートを楽しむだけでなく、かつての海賊の様子を知れるパイレーツオブナッソーや、対海賊用のシャーロット砦などバハマの歴史も知れる施設が多いです。
フェリーで30分ほどのブルーラグーン島は島全体がリゾートとなっており、イルカなどの海洋生物と触れ合うことも可能。
巨大レジャー施設であるアトランティス・パラダイス・アイランドではプールやビーチ、水族館など広大な敷地内にさまざまな施設が完備されています。
エグズーマ島
エグズーマ諸島の特徴はなんと言っても海を泳ぐ豚の姿を見られること。ここの豚たちは、ビッグ・メジャー・ケイに住み着いている野生の豚。
豚たちがここに住み着いている理由は、食用の豚が輸送中に船から逃げ出してここに住み着いたと言われています。
この島はナッソーからツアーで訪れることが可能。透明度の高い海で、スノーケリングやダイビングも楽しめます。
国際関係
バハマは小国でありながら、さまざまな国際機関に加盟し、世界や地域の発展や安定に寄与しています。
その結果、バハマは国際的に比較的高い地位にあり、国際的に重要な国家の一つです。
バハマの加盟する主な国際機関
・国際連合
・カリブ共同体(CARICOM)
・カリブ海初銀行(CDB)
各国との関係
キューバとはかつて漁業権を巡って争っており、険悪な関係にありました。
そんな中、1980年にキューバの軍用機がバハマの巡回船を沈める事件があり、バハマはこの件について、キューバ側に謝罪と賠償を求めます。
この時、キューバ側が非を認め謝罪と賠償を行ったため、それ以降二国間の関係性は改善されました。
ハイチからは、不法入国者が後を絶たず大きな問題となっています。しかし、両国の関係性は良好で、外交的にも経済的にも結びつきが強いです。
最も関係性が深いのがアメリカとイギリスの2カ国。特にイギリスとは、かつてバハマはイギリスの植民地で現在でもイギリス連邦の加盟国です。
アメリカにとって、バハマはハワイと並ぶアメリカ人にとっての一大リゾート地。
バハマへの観光客の8割ほどがアメリカ人であることからも、その人気ぶりが伺えます。
バハマにはアメリカに関連する会社も非常に多く、バハマの経済状況はアメリカに左右されると言っても過言ではありません。
まとめ
バハマは「カリブの海賊」の拠点となった歴史を持ち、アフリカから奴隷として連れてこられた人々の末裔が住む国です。
今では観光地として、金融の中心地としてカリブ海随一の裕福な国へと発展しました。
そんな今でも、島ごとに異なる文化や習慣の中にかつての歴史の名残を見ることができます。
観光地としての魅力も十分なバハマ。訪れたら海賊の隠し財宝を見つけられるかもしれませんね。
コーカサスの火の国 アゼルバイジャン
アゼルバイジャン共和国は、ロシア、ジョージア、アルメニア、イラン、トルコと隣接するイスラム教国家です。
世界最大の湖、カスピ海に面する旧ソ連の構成国の一つ。世界有数の産油国で、バクー油田では古代より石油の生産が行われていました。
その石油によってもたらされたオイルマネーをもとに発展した首都バクーは第二のドバイとも呼ばれ、近未来的な都市が広がっています。
そんなアゼルバイジャンについて、詳しく見ていきましょう。
基本情報
気候
アゼルバイジャンの気候は夏は暑く冬は寒い大陸性の気候で、首都バクーなどの低地はステップ気候(BSk)に分類される乾燥した地域です。
バクーは強い風の吹く都市で、降水量は少なく寒い冬でも雪は降りません。
内陸部や山間部には温暖湿潤気候(Cfa)や冷帯湿潤気候(Dfb)が広がり、さらに細かく分類すると、9つの気候帯が国内に存在します。
地理
アゼルバイジャンはコーカサス地方に位置しており、東部で世界最大の湖カスピ海に面しています。
5カ国と隣接し、そのうちトルコとは飛び地であるナヒチェヴァン共和国と隣接。アラス川に沿った僅か9kmほどの国境線です。
国土の半分は山岳地帯で、最高峰はバザルドゥズ山の4467m。国土を東西に走るコーカサス山脈に冷気団が遮られているため、亜寒帯気候と亜熱帯気候の地域が隣接しています。
コーカサス山脈は降水量、降雪量が多く、周辺地域にとって重要な水資源です。標高の高い地域は針葉樹林、低い地域には落葉樹林が広がります。
クラ川流域の低地は半乾燥地帯が広がっていますが、灌漑されており比較的肥沃。
カスピ海は、ビーチリゾートや油田としてアゼルバイジャンにとって非常に重要な湖。国内を流れる川は全てカスピ海に流れ込んでいます。
歴史
紀元前〜
紀元前2千年ごろ、現在のアゼルバイジャン領域にはアルバニア人の治めるカフカス・アルバニア王国がありました。
ちなみに、このアルバニア人は現在の東欧アルバニアの住民とは全くの別民族。
3世紀になると、サーサーン朝イランの支配下に入り、イスラム世界の一部となりました。
13世紀にはモンゴル帝国、15世紀にはペルシアのサファヴィー朝の支配下に置かれます。このサファヴィー朝の支配下にあったことが、現在のアゼルバイジャン人の大多数がシーア派であることの要因です。
18世紀〜
18世紀にロシアの侵攻が始まり、ゴレスタン条約、トルコマンチャーイ条約の二つの条約によりロシアに併合されました。
20世紀初頭には世界の石油使用量の半分を供給する一大産油国として繁栄。
第一次世界大戦末期に起きた二がk津革命でロシア帝国が崩壊すると、アルメニア、ジョージアと共にザカフカース民主連邦共和国を形成。
しかし、2ヶ月もしないうちに3カ国に分裂。アゼルバイジャンはイスラム世界初の議会制の共和国であるアゼルバイジャン民主共和国として独立しました。
独立後すぐにナゴルノ・カラバフをめぐってアルメニア第一共和国との戦争が勃発。その後、独立から2年でソ連に組み込まれることとなりました。
第二次世界大戦時には、ナチスドイツが豊富な石油を狙ってバクー侵攻を試みるも失敗。
1991年、ソ連の崩壊に伴い、アゼルバイジャン共和国として独立を果たしました。
情勢
治安は比較的安定しており、テロ等も今の所発生していません。もちろん、最低限の防犯対策は必要です。
しかし、2020年のアルメニアとの紛争以降テロの発生に対する注意喚起がなされており、その脅威が高まってきています。
特にアルメニアとの国境付近では、停戦に至った現在でも安全とは言えず、近づかない方が無難です。
経済
アゼルバイジャンは火の国と呼ばれており、その理由は豊富な埋蔵量を誇る石油や天然ガスなどの天然資源。
アゼルバイジャンはこれら天然資源をもとに2000年代には急速な経済発展を遂げました。
首都バクーからトルコのジェイハンまで伸びるパイプラインも2006年に完成し、世界第二位の規模の石油パイプラインとしてヨーロッパ方面への石油輸出の役割を担っています。
近年は天然ガスの生産、輸出にも力を入れており、アゼルバイジャン経済は天然資源への依存度が高いです。
主な貿易相手国はヨーロッパ諸国で、石油や石油関連のものを輸出。
西側諸国にとってアゼルバイジャンの油田は、ロシアに干渉されないことから重要視され、多くの石油関連会社が出資しています。
観光地としての魅力も高い国で、観光業は一時期紛争の影響で陰りが出たものの、2010年代以降は再び観光客が増加していきました。
紛争
隣国アルメニアとは、現在停戦しているものの、未だに紛争状態にあります。2020年に本格的な軍事衝突があり、この時は事実上アゼルバイジャンの勝利という形で停戦に至りました。
その舞台となっているのが、ナゴルノ・カラバフ地方。アゼルバイジャン領内にあるものの、アルメニア人比率が高い地域です。
国際的にはアゼルバイジャン領とされている同地域のアルメニア系住民が、アルツァフ共和国として独立宣言をしたことで紛争に発展。
アルメニアが事実上支配していたアルツァフ共和国は、2020年の紛争の結果、その領土の大部分がアゼルバイジャンに返還されました。
文化
文化的特徴
アゼルバイジャンの文化は、何千年にもわたる歴史の中で形成され、さまざまな文化の入り混じる中で独特の文化が形作られました。
遊牧民の伝統やペルシャ、アラブ世界の文化が融合して現在のアゼルバイジャンの文化となっています。
これらの文化は音楽やダンス、芸術品、映画などによく表れており、音楽などはユネスコの無形文化遺産にも登録されているほどです。
アゼルバイジャンの伝統的なライフスタイルは地域ごとに異なり、各地のフェスティバルに参加してその伝統を味わうこともできます。
料理
アゼルバイジャン料理は、イランなど中東の影響を受けており、さまざまなハーブやスパイスを使うのが特徴。
また、ワインの産地としても有名。他の二つのコーカサス諸国と同様に、ワインの発祥地と言われています。
プロフはアゼルバイジャンの代表的な料理の一つで、肉や野菜類にハーブを加え、サフラン風のご飯と混ぜたもの。
ドルマはアゼルバイジャンの伝統的な料理で、肉や豆類などさまざまな具材とスパイスを混ぜ合わせブドウの葉で包んだもの。野菜に詰めるものもあります。
ラム肉のシチューであるブグラマは、ヘルシーなアゼルバイジャン料理。ラム肉をトマトや黒胡椒などと共に煮込む料理です。
建築
アゼルバイジャンの建築物は、東西双方の文化が混ざり合っているのが特徴。首都バクーにある乙女の塔などがその代表的な例の一つ。
現在のアゼルバイジャンでは、近代的な建物が建設されており、フレイムタワーは現代アゼルバイジャンの建築を象徴する建造物。
バクーの街並みは、旧市街の歴史的な建造物と、それらと対照的な近代的な建造物が建ち並んでいるのが大きな特徴です。
スポーツ
アゼルバイジャンは他の多くの国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツです。
ワールドカップへ出場したことはないものの、ヨーロッパリーグでは好成績を収めたこともあります。
格闘技も盛んで、フリースタイルのレスリングは国内における伝統的なスポーツ。日本で言う相撲のような国技に当たります。
チェスの強豪国でもあり、著名なチェスプレイヤーを数多く輩出。国を挙げてチェスに取り組んでいます。
観光地
渡航基本情報
アゼルバイジャンの空の玄関口となるのはヘイダル・アリエフ空港。ヨーロッパ諸国や中東との路線が多く、日本から訪れる場合はドバイや北京で乗り継ぎとなります。
陸路で国境を越える場合は、ジョージアかイランからの入国となり、紛争状態にあるアルメニアからの入国はできません。
印象的な建造物や、天然資源の作り出した景観がアゼルバイジャンの観光地としての魅力。
バクー
アゼルバイジャンの首都バクーはカスピ海に面した油田の街で、コーカサス地方最大の都市。
三棟建ち並ぶフレイムタワーが印象的。炎をイメージしたこの建物は、火の国と呼ばれるアゼルバイジャンを象徴しています。
城壁で囲まれた旧市街は、城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔として世界遺産に登録されている歴史ある街並み。
戦争や紛争で亡くなった人々を祀った殉教者の小道もまた、アゼルバイジャンの歴史を感じられる場所。
ヤナルダグ
バクーから車で30分ほどの場所にあるヤナルダグは、噴出する天然ガスが自然発火して燃え続けている場所。
ヤナルダグは燃える山という意味で、2000年以上燃え続けていると言われています。特に夜は揺らめく炎が神秘的。
この燃え続ける炎は、火を崇拝するゾロアスター教の信仰に影響を与えたと言われています。
ゴブスタン
ゴブスタンの岩絵の文化的景観として世界遺産に登録されているで、古代彫刻や泥火山*1が見られる国立保護区です。
60万を超える数の岩絵があり、先史時代の生活を読み取れる考古学的にも非常に重要な場所。
また、全世界にある泥火山の過半数がこのゴブスタンやカスピ海にあると言われています。
国際関係
紛争と国際関係
アゼルバイジャンと周辺国との関係性は、ナゴルノ・カラバフ紛争に大きく影響されています。
ロシアはこの紛争においてアルメニア側を支援する立場にあり、一定の関係性を維持しているものの、良好とは言えません。
パキスタンはアゼルバイジャンを支持しており、関係性は良好。むしろ、アルメニアに対しては国家承認すらしていません。
紛争相手国のアルメニアとは当然外交関係を結んでおらず、現在は停戦状態にあるものの、まだ問題の根本的な解決には程遠いです。
その他国際関係
アゼルバイジャンは、イスラム教国でありながらイスラエルとの関係が良好です。
貿易面では、イスラエルへ天然資源を輸出し、イスラエルからは農作物などを輸入。また、紛争においてもイスラエル製の兵器が多く使用されました。
アゼルバイジャン国内にはユダヤ人コミュニティがあり、これまで迫害や虐殺の歴史がなく、長きに渡りユダヤ人が平和に暮らすことができています。
トルコは最友好国とも言える国。文化的、人種的、言語的に近しく、外交的な結びつきも強固なものです。
紛争においても、常にトルコはアゼルバイジャンを支援してきました。
西側諸国とはロシアへの対抗目的もあり、外交的、経済的関係性を強めつつあります。
まとめ
アゼルバイジャンは、イスラム教国でありながら気軽にワインが飲めたり、イスラエルとの関係も悪くなかったりと、他にはない独自の特徴を持つ国です。
過去と近未来が融合したかのような街並み、豊かな自然景観など人々の目を惹きつけるものも数多くあります。
他にはない独自の魅力を持った火の国、それがアゼルバイジャンという国です。
*1:泥水が噴出する場所